食べることは生きること

食べることが生きること、っていうのは信条のひとつで、だから食べることって生き様そのままという気がしてすごく大事で時々恥ずかしい。延長に発生した考えで、食べることを大事にしていると生きることをも大事にできる気がしてならない。
ハワイアンの考えで「食べ物は神聖なものだからその周囲で悪しきことを口にする(喋る)な」というのを目にしたことがある。ソフィスティケイトされると「食事は楽しく」ってことになるのだろう。万国共通の考え方だ。
食べ物に感謝する、っていう意識が薄くなったのは、肉が切り身でパッケージされ、あるいは採り調理する行程が人に任されコンビニエントな状態でパッケージ販売され、夜も昼も関係なく入手できるようになって加速したものだろうと思う。
ネット上のどこかで「御節なんて食べ物は今の世に合わないからやめてしまえ」っていうのを先日読んでその論理の一つ一つはどれも納得するものだったのだが、やっぱり残念な考えだと思う。作るとわかるが冷めた状態で食べる御節を作るのは手も心も砕く大変な仕事だ。
御節はもはや「おいしいものを食べる」ための料理ではないというふうにすれば、落とし所も多少見えるのではないだろうか。文化としきたりが今のご時勢にしては珍しく詰まった正月seasonは、人生の文化祭だ。
外(の国)に出(て違った価値観や様式に触れ)ると、ニッポンがよりよく見える。いかに偏った価値観の中で生きているかってことを再確認できる。
今朝の一連は、kalo(=タロ芋)をあの独特の道具ですりつぶしてpoiにする、っていうのを目にした時に、手間がかかってるな、この間作ったきんとんの芋ペーストみたいだな、って思ったことに始まったものです。大変だったから残さないって思うし大変を分かち合える食卓は幸せだろう。